ドイツの本当のクリスマスは、12月6日の聖ニコラウスの日になります。
宗教改革後に12月6日の聖ニコラウスのお祭りが禁止されて、12月25日になってしまったようですが・・。
12月6日はドイツのクリスマス、聖ニコラウスの日。サンタクロースの起源です。
12月6日は、ドイツのクリスマス、聖ニコラウスの日になります。
学校でも、家の近隣でも、プレゼントを交換したり・・。子供達は、前日に靴をきれいに磨いて、ベットのそばに靴下を下げて、寝るのです。
次の日には、プレゼントとして、その靴下の中に、お菓子が果物、ナッツが入っていて、子供たちは大喜びなのです!
質実剛健な感じでいいですよね・・。
聖ニコラウスとは、現在のギリシャやトルコあたり(ミラという都市)の聖人らしく、良い行いをして、かわいそうな人を助けたという、しかし、誰にも言わないようにと自ら言って、皆が慕ったそうです。
3人娘のいる貧しい家庭に、煙突から金貨を投げ入れて、その娘さんたちが身売りせずに、結婚ができるようにしたという伝説があります。
煙突から投げ入れた金貨は、ちょうど靴下の中に入ったらしいのです。
誰が金貨を投げ入れたのかとお母さんが待ち伏せしていると、近くの青年であり、しかし、この青年は、誰にも言わないようにと言ったそうです。その後、皆に慕われたそうです。
日本の昔話にもありそうな、良いお話ですよね・・。
しかしながら、このような良いお話が消えてしまい、商業的なクリスマスの方がもてはやされ、大企業が宣伝効果のためにつくりあげたクリスマスで盛り上がっているというなんとも情けない現状ですね!
4世紀頃の東ローマ帝国・小アジアのミラの司教(主教)、教父聖ニコラオス(ニコラウス)の伝説が起源である。「ニコラオス」の名はギリシア語表記。ラテン語ではニコラウス。イタリア語、スペイン語、フランス語ではサン・ニコラ。イタリア語ではニコラオとも。ロシア語ではニコライ。
以下のような伝説のほか、右に挙げる絵画のように無実の罪に問われた死刑囚を救った聖伝も伝えられている。
「ある時ニコラウスは、貧しさのあまり三人の娘を身売りしなければならなくなる家族の存在を知った。ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、窓から金貨を投げ入れた。このとき暖炉には靴下が下げられていており、金貨はその靴下の中に入ったという。この金貨のおかげで家族は娘の身売りを避けられた」という逸話が残されている。この逸話が由来となり、「夜中に家に入って、靴下の中にプレゼントを入れる」という[3]、今日におけるサンタクロースの伝承が生まれている。また、ニコラウスの遺骸はイタリア南部の都市であるバーリに移されたとも言われている。
煙突から入ることになったのは1822年にアメリカの学者クレメント・クラーク・ムーアがフィンランドの言い伝えを伝承した「聖ニクラウスの訪(おとな)い」(英語)という詩「キラ星のなか、屋根から降るのは/小さい蹄の立てる爪音/引っこめ振り向いて見ると/聖なるニコラウス煙突からどすん」を書いたからと考えられる[4]。
また、ニコラオスは学問の守護聖人として崇められており、アリウス異端と戦った偉大な教父でもあった。教会では聖人として列聖されているため、「聖(セント)ニコラオス」という呼称が使われる。これをオランダ語にすると「シンタクラース」である。オランダでは14世紀頃から聖ニコラウスの命日の12月6日を「シンタクラース祭」として祝う慣習があった。その後、17世紀アメリカに植民したオランダ人が「サンタクロース」と伝え、サンタクロースの語源になったようだ。
正教会系の国では、サンタクロースは厳密に「奇蹟者」の称号をもつ聖人たる聖ニコラオス(聖ニコライ)であり、聖ニコラオスの祭日は12月6日である(聖名祝日の項目を参照)。子供たちがこの日に枕元に靴下を吊るしておくと、翌朝に入っているのはお菓子である。尚、クリスマスである12月25日は聖体礼儀に行く日で、プレゼントはない。
その生涯は早くから伝説化され、ニコラオス伝は好んでイコンに書かれる。東方教会および南イタリアで重視されたが、のちには西方教会全域にもその崇敬が広まった。
ニコラオスには大部の神学的著作があるわけではないが、正教会ではキリスト教生活を体現したとして篤く崇敬される。記憶日が年間に2回(本来の記憶日である12月6日/12月19日、およびミラからバリへの不朽体移動日)あるほか、諸聖人を記憶する毎週木曜日の奉神礼(晩課および早課など)の祈祷文において、多くの諸聖人の中でも特に重視されて必ず言及される。
聖ニコラオスの聖伝には弱い者を助けた話や、信仰の弱い者を教えて真理を守らせた話が数多く残っている。特に弱者を助ける際には、他人に知られないように行う事が常であった。また、数多くの奇蹟を行った事から奇蹟者との称号がある。
以下の内容と文体は歴史的事実としての記述ではなく、あくまで正教会の伝える聖伝の概略を示したものである事に注意されたい。
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三人の娘が居る貧しい家に金を投げ入れるニコラオス(画:ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ)
ニコラオスは小アジアのローマ帝国リュキア属州のパタラの町に生まれた。叔父のパタルの主教ニコラオス(甥と同名)は甥に徳行の基を見出し、ニコラオスの父母を説いて幼い頃から教会に従事させた。
司祭であった時には、かつて豪商であったが財産を失い貧しくなったために娘を売春させなければならないところであった商人の家に、夜中に窓(あるいは煙突とも)から密かに2度、多額の金を投げ入れた。このため持参金も用意して娘達は正式な結婚を行なうことができた。父親は大変喜び、誰が金を投げ入れたのかを知ろうとして見張った。すると3度目に金を投げ入れているニコラオスを見つけたので、父親は足下にひれ伏して涙を流して感謝した。
特筆すべきは、上記のこの部分ですね。
聖ニコラオスの聖伝には弱い者を助けた話や、信仰の弱い者を教えて真理を守らせた話が数多く残っている。特に弱者を助ける際には、他人に知られないように行う事が常であった。また、数多くの奇蹟を行った事から奇蹟者との称号がある。
しかし、残念ながら、聖ニコラウスは、2015年に消滅しているとの情報を得ました。
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=91767
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=92820
やはり、もうどんなイベントでもあまりこだわらない方がいいのかと・・。
パタラ(Patara, リュキア語: Pttara)は小アジアのリュキア地方南西部の地中海沿いにあった古代の港湾・商業都市。アルシノエ(Arsinoe, Ἀρσινόη)と改名した時期もある。その遺跡は現在、トルコのアンタルヤ県のゲレミシュ(Gelemiş)という小さな町の近くにある。リュキア連邦の首都であった。キリスト教の聖人で、パタラの近くのミュラの主教を長年務めたミラのニコラオス(聖ニコラオス)の生まれた町でもある。
古代ギリシヤ人はこうした独立したこの地の都市群を総称してパンフィリアと呼んだ。これらの都市ではその後連合が組まれた。トロイ戦争(紀元前1200年中期)後、ギリシア人がこの地に移住を開始、海岸線や内陸部にギリシアの植民都市が形成された。ギリシア時代、アンタルヤの西部地方はリュキア、東はパンフィリアと呼ばれた。さらに遠くの東方はキリキアが、北部にはピシディアがあった。古代ローマに征服されるまでリュキア王国は世界最初の民主的な国家であったと言われる。